旧開智学校校舎が国宝に・又吉直樹が文明開化に迫る

「旧開智学校校舎」が2019年に学校建築としては初めて国宝に指定されるのを記念して、又吉がその魅力を紹介してくれるみたいだ。



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旧開智学校校舎

出典:開智学校校舎

旧名称:第一番小学開智学校

設計者:立石清重

着工:1875年(明治8年)4月

竣工:1876年(明治9年)4月

所在地:長野県松本市開智2丁目4番12号

開智学校は、地元出身の立石清重が設計施工をした擬洋風建築で、大体棟梁などが都会に洋風建築の勉強や視察に行ったという伝えは残っていても、実際の資料とか証拠は残ってないのが普通だが、立石の場合は、「東京出府記」と一緒に「営繕記」を残していて、1875年に2度の上京して、開成学校、山梨県の日川学校琢美学校を見学したスケッチがのこってるようだ。

出典:営繕記

立石清重

出典:立石清重

清重は立石清三郎の次男として1829年(文政12年)6月15日に生まれた。 文政12年とは天皇は仁孝天皇で江戸幕府の11代将軍の徳川家斉の時代です。

    

出典:仁孝天皇        出典:徳川家斉

清重の家は、代々棟梁の家柄で、松本藩戸田氏にも出入りしていた町大工だったようだ。

清重の子供は、2人で、長男の清吉と長女の八寿の2人だったようだ、長男の清吉は医学を目指していて、現在の東京大学医学部の前身である、東京医学校に入っていたが、清重が開智学校の工事をしている最中、息子の清吉(改名して清美)が学校の卒業を控えていたのに、急死したようです。

後に、清重が駆けつけた時には、薬漬けで保管されていたようです。

落胆の中、開智学校に心血を注いでよく建てたものですね。

その後、長女(八寿)の子供友三郎に2代目清重を名乗らせ、家業を継がせたようです。しかし、この2代目清重も横浜に出て建築家になったが、病弱で松本に帰った後、33歳の若さで亡くなったみたいです。

初代清重自体は、棟梁としての活躍は衰えず、洗馬学校、松本裁判所、大町裁判所、筑摩県師範学校、東筑摩中学校などを手掛けた。

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現在はまだ重要文化財 旧開智学校

1961年から国の重要文化財として指定されています。

開館時間:9:00~17:00

Tel 0263-32-5725

URL:旧開智学校

旧開智学校の内部の様子

出典:教室

出典:教壇

出典:玄関正面

出典:講堂

あまり、調べすぎると行った気になるので、ここまでにしといて、近くには松本城

出典:国宝松本城

もあり、観光をいろいろと楽しめそうです。

国宝の指定されたら、一気に観光する人が増えそうなので、その前に松本市をまるごと観光してはどうでしょうか? 僕の何かのタイミングで行きたいなぁ~。



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