小野田寛郎氏が池上彰の日本中が驚いた大事件SPでクローズアップ

最後の日本兵といわれる小野田寛郎さんが、日本が驚いた大事件としてクローズアップされた。 平成生まれの今の子供達は日本兵がどういう魂をもって戦争に向かったのか・・。小野田さんの戦争が冒険家 鈴木紀夫さんとの出会いで終戦をむかえたのか。



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最後の日本兵!小野田寛郎さんとは?

1922年3月19日ー2014年1月16日(没)享年91歳

大正11年に和歌山県海草郡亀川村で小野田家の四男として生まれる。

旧制海南中学校卒業後民間の貿易会社の就職して、当時の中華民国の漢口支店勤務で中国語を習得している。

そして、満20歳になった1942年12月に徴兵検査を本籍の和歌山県にあった和歌山歩兵第61連隊に陸軍二等兵として入営した後に歩兵第218連隊に転属して、この連隊に在営中に甲種幹部候補生を志願し合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入る。卒業後、中国語、英語が堪能だったことから陸軍中野学校二俣分校に入って、遊撃戦や隠密行動の教育を徹底的に受けた。これが当時の戦陣訓「生きて捕虜の辱めを受けず」とは正反対の「最後の一人になっても戦え!玉砕はならず捕虜になっても生きろ」という教えを守って戦後29年で彼の終戦を迎えることになる。

出典:入隊当時の小野田氏

彼がどういう戦争をしてきたのか、再現ドラマとして見せてくれるのは、今の子供にもわかりやすいだろうと思います。 かく私も戦後の平和で恵まれた時代に生まれたのですが、祖父から戦争の話はよく聞かされて、この時代の男は凄い!知りたい!と興味が湧いてきます。

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小野田寛郎を見つけた冒険家 鈴木紀夫さんとは?

出典:小野田氏と鈴木紀夫氏

「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」でクローズアップされた冒険家です。

1949年4月~1986年11月(37歳没)

千葉県市原市八幡 が出身地

夢が「パンダ・小野田氏・雪男に会う!!」でその最後の雪男を探す登山のヒマラヤ・タウラギリ峰ベースキャンプ付近で遭難した。

小野田氏と鈴木さんの出会い

過去にNHKのBSプレミアムで放送された「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」で小野田氏を塚本晋也さん、鈴木氏を塚本晋也氏で描いた再現ドラマが昔あったのだが似すぎてすごかった印象がある。

出典:当時の写真

出典:NHK BSドラマ

めっちゃ似てる・・・。

前から、日本兵(小野田氏)が、戦闘を続けているのは知られていたが、1972年10月から半年間でのべ106名、9021万円かけて日本政府は救出活動をしたが、教育された事を忠実に守っていた小野田氏は、これは「すべて敵の謀略」と思っていて、山から(ルバング島山中)下りてこず捜索は打ち切りになった。

しかし、鈴木氏は「俺だったら小野田さんの占領地に単身踏み込んで野営してれば、俺の縄張りを荒らすのは誰だ!と向こうから会いに来る!!と信じ単身ルバング島に乗り込んだ。

フィリピン ルバング島

現地の村民にワカヤマ・ポイントで会えると教えられ、そこで4日目にして小野田氏との接触に成功! このときの小野田氏の第一声は「おいっ!!」だったそうだ。

小野田 「お前は誰の命令でここへ来たんだ!?」

鈴木  「誰の命令でもありません!ただの旅行者です」

小野田 「・・・・」(こんなところに旅行者がくるわけない!敵だあやしい)

小野田氏は軍人なので、怪しいと思った鈴木氏に銃を向ける、その迫力に、160cmな小柄の小野田氏が大男に見えたそうだ。

そうこうしながら、お互いに警戒しつつもお互いに興味があるものだから夜通し語り合ったそうだ、

鈴木 「戦争は終わりましたから、一緒に帰国してください」

小野田 「・・・」(大日本帝国が戦争に負けるわけがない、一人でもやってやる)

鈴木 「どうしたら?山を下りてくれますか?」

小野田 「上官の命令がいる!」

ということで、小野田氏が谷口少佐の名前をだしたそうです。

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、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫がルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。3月9日に、かつての上官である谷口義美陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る[要出典]

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。— 第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

そして、1974年3月12日に両名は帰国することとなりました。

任務解除命令が出たのち、フィリピン軍に投降した小野田氏はフィリピン軍に処刑されると思っていたようです。

出典:投降

マラカニアン宮殿で当時のフィリピンのマルコス大統領に軍人の命と言える軍刀を手渡す小野田氏

出典:軍刀

ということで足早に最後の日本兵!小野田寛郎氏を紹介しましたが、彼がどのような孤独な戦いをしたか、当時の日本兵とは? 再現ドラマが楽しみです。

出典:日本に帰国したときの小野田氏の写真

番組を見逃した方はこれで見てください。




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